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江戸名所図会

江戸名所図会 高田八幡宮其の二

江戸名所図会(えどめいしょずえ)は今を遡ること約百八十年前の江戸天保年間(1830年頃)に刊行されました。その中に江戸時代の當山を描いたものがこの「高田八幡宮其の二」で有ります。
この図会にもございますように神社境内に観音堂、本地堂(阿弥陀堂)が在り、当時の日本仏教の神仏習合(神仏の区別なく一緒にお祀りすること)の特徴がうかがえます。
明治の廃仏毀釈以前は当山住職が放生寺と穴八幡宮の一山を治め徳川将軍家とも親交厚く、付近一帯は放生寺門前町と呼ばれておりました。
平成の世になり穴八幡宮も當山も建物が新しくなり往昔の面影が失われていく中で唯一江戸時代の資料がこの江戸名所図会であります。

1.別當
放生寺
2.専用門
歴代住職が社務を取るため八幡宮に通う専用門
3.本地堂
八幡神の本地仏は阿弥陀如来であり、拝殿脇のこのお堂で阿弥陀如来がお祀りされていた。
本地仏=日本仏教の本来の姿である神仏習合思想の一つで日本八百万の神はみな仏、菩薩の化身として考えられていた。京都奈良の神社仏閣がそうであったように當山も神仏の区別なく阿弥陀如来、観音菩薩を拝殿の脇にお祀りし、當山歴代住職が寺社の祭祀を司っておりました。しかし明治の廃仏毀釈により寺と神社は境内を割譲し現在に至っております。
4.観音堂
江戸三十三観音第十五番札所。
明治以降の廃仏毀釈の際に當山に移築された。
5.出現地
開創良昌上人が草庵を結ぶため南麓の崖を切り拓いたところ横穴が見つかり、中から金銅の阿弥陀如来像が現れ、爾来「穴八幡宮」と称するようになった。
現在は「出現堂」としてお堂が放生池に隣接して建てられて居る。
一説に依るとこの穴は江戸城に繋がっていると云われて居る。
6.光松(ひかりまつ)
當山の山号の由来となった神木。
戦災で消失
7.放生池
放生会を修した池。
往時は境内南麓に在った。
8.現早稲田通り
江戸時代には「放生寺門前町」と呼ばれていた。
「鬼平犯科帳」や「御宿かわせみ」にしばしば登場しております。

名所図会逸話

この名所図会の模写をして頂いた方はインテリアデザイナーの栗原満直氏であります。
栗原氏との出会いは平成二十一年春に「先祖の一人が貴寺の住職だったようです。本圓という方は歴代の住職には居られませんか。」と云う連絡を當山に頂いたのがご縁であります。
本圓阿闍梨は今を遡ること約百八十年前の江戸天保年間(奇しくも名所図会が刊行された頃)に當山=高田八幡宮別当放生會寺十三世住職として、放生寺と穴八幡宮の一山を治め、徳川将軍家とも親交厚く江戸末期にご活躍された住職でもあります。
百八十年もの星霜を経て當山歴代住職の末裔の方にお会いできるとは思いもよらぬ事であります。
またその方に名所図会の模写をして頂けたことは正に仏縁、法縁の賜であり言葉では言い表せないご縁の有り難さと摩訶不思議な力を感じました。

放生寺について